須崎にUターンしてきた須崎市議会議員の杉山愛子さん。以前の取材ではご夫婦にお話を伺いましたが、本日は愛子さん単独のインタビューです。取材から12年。大きな変化があった杉山さんにお話しを伺いました。
 
―――改めて須崎に来たきっかけを教えてください。
「 私は、京都生まれ須崎育ちです。大学で一回須崎から出て、卒業して教員になるために学校の臨時職員として2年働いていて、もう一回学部編入で大学に入りました。もともとスポーツが大好きで、鹿児島の国立の体育大学に入ったんです。それは中学生のときからの夢でした。でも、高校3年生のときの受験真っ只中で日本語に興味を持って日本語を勉強したくなりました。そのときは、すごく悩んだんですけど、父から「やりたいことは一生かけて全部やったらいいよ」と言われて、まずは体育大学に行きました。卒業後に2年帰ってきていたときは、世界の子供たちのために働きたいという想いがありました。飢餓とか戦争とか紛争の問題とか。大学のときに海外の貧しい国に行ったことがあったんですけど、子供たちに「先生になりたい」とか「サッカー選手になりたい」とか夢があったんですね。でも、日本の子供たちは命の危険はないかもしれないけど、どれくらい夢を持てているのかな?と思って日本の子供のために働きたいと思いました。保健体育の教師になろうか迷っている中で色々考えて、社会に貢献している人は、自分が好きなことを活かして貢献しているんだなと気付いて、改めて好きなことをしたいと思い、日本語のルーツを研究しようと再度大学に学部編入しました。大学3年生のときに結婚したのですが、4年生のとき大学院進学を目指していたさなかに、妊娠して休学して出産しました。それからは2年ごとに出産しています。」
 
―――須崎に移住してから5人のお子さんを出産された杉山さんに、子育ての話について聞いてみました。
「東京で2人、移住してから5人出産しました。須崎は、子育てがしづらいという声が多いです。子育て支援金(須崎市の子育て支援金は第三子以降の出産につき15万円)とか早く始まったものはあるけど、遅れてきています。他の市町村は額が多かったり、第一子の出産から支援金が支給される自治体もあります。親の送迎がないと子供もスポーツがやりづらい環境です。でも、これから図書館ができて、スケートパークができて楽しみですね。それと、てくテックすさきみたいな環境はなかなかない。あれはみんな行ってみてもらえたらいいなと思います。楽器もあって、作曲できる機材もあって、3Dプリンタもあって無料というのはすごいです。」
 
―――子育てして変化はありましたか?
「うーん、子供はかわいいから何人でも欲しい(笑)でも、「子供はかわいいと思うけど、2人で終わり」とか、「これ以上無理」という声を聞くことがありました。自分たちの頃は、将来何人子供を産もうとかワイワイ楽しく話していたけど、若い世代に聞いたら「子供はいらない」という話になります。子育てに憧れがなくて、大変というイメージが強くなっていますよね。子育て支援の話になると、「個別に対応はできない」とか、「家庭の責任と社会が支援すべきところの境界が曖昧になっていないか?」という意見を聞くこともあります。(親戚の)おじいちゃんおばあちゃんってとても子育ての助けになるんです。日々の急なことにも対応してくれます。でも、おじいちゃんおばあちゃんがいなかったり、現役だったりしたら、おじいちゃんおばあちゃんの代わりになるくらいのつもりで行政もやらないといけない時代なんじゃないかなと思っているんです。今は核家族で共働きのフルタイム勤務が増えてきて、これは日本史上初の事態です。昔は大家族で子育てをしていて、主婦がいる核家族時代を経て、今は核家族で共働きの時代になりました。もう、子育てを家庭だけでするというのは無謀です。」
 
―――とにかく変化が大きい杉山さん。2022年には市議会議員になりましが、選挙に出馬しようと思った経緯をお聞きしました。
「要請があったというのがまずひとつです。やれるとか全く思ってないし、やりたいと思ったこともありませんでした。要請の時点で、選挙の直前で考える時間もなくて…。でも、決心できたのは、職業選択のひとつということでした。在宅の仕事をしていましたが、基本的にはずっと専業主婦で、卒乳まで授乳したいとなると外に出て働くのは難しくて。「これから自分は何をしたいのだろう」と思っているところの要請でした。自分の信念に反する仕事はしたくなかったし、議員の仕事はやりがいがとてもあると思いました。でも、できると思わなかったですし、何をしたらいいかもわからなかった。7人子育てしないといけなかったから、一度は断りました。すると、共産党としてサポートするからと言ってくれて…。戦争できる国づくりが進みつつあると感じるときに、お母さんたちが黙っていたらいけないと思っていたので、母として声を上げなければいけないと思いました。」
 

 
―――議員になってからの3年間はいかがでしたか?
「当選して看板を見ると、心臓が押しつぶされるような、背負った責任に朝起きて心臓がぎゅーってなるんですよ。私は大変なことに手をあげたなというプレッシャーですよね。社会人経験もないのに、議会で発言するなんて。最初は、お母さんの声を拾って届ける役割をしよう思っていました。でも、「要望を実現するまで責任を持たないといけない、あなたは戦わないといけない」と言ってくれた方がいました。みんなで話し合って、最適な政策へという想いがあったのに、「戦え」という言葉にプレッシャーを感じました。議員もそれぞれ意見が違うので、議論して戦えたらまだいいけど、「余計なことは言わなくていい」という圧力を感じます。それにやられてしまうのかなと思ったけど、案外大丈夫でした(笑)バッジを取り上げられない限り、発言する権利を奪われないと思って、冷静に振る舞えました。それと、この仕事は面白いと思います。活動のすべてが、誰かの幸せのためであったり、誰かの暮らしやすさのためにあることが、幸せです。色んなご要望やご意見をいただくので、自分の視点が変わるんですね。今まで気に留めていなかったところに目がいくようになって、要望実現のために調べたり、人に聞いたりする過程が楽しいです。日々新しい世界が見える、色んな方に繋がって色んなご意見を聞けて、それはこの仕事をしているからこそですよね。」
 
―――あらゆる方の意見を聞く一方で、課題も感じていると杉山さんは続けます。
「議会や社会が一部の人のものになっているんじゃないかなと思います。みんなの意見をまんべんなく聞いて醸成していくということが、政治的にできているかと言われると違うんじゃないかな。もっと色んな人に議会に入ってきてもらいたいです。議員としてもっと色んな人の話を聞きにいかないといけない。やってみてわかったことですが、自分のところに声は届かない。自分が聞きにいかないと分からない声に重大な社会課題があると思っています。」
 
―――須崎のいいところ、変えていきたいところを教えていただけますか?
「前のインタビューの時から想いは変わっていなくて、新荘川と富士ヶ浜は子供も遊ばせやすくて本当にいいなと思います。シーグラスは上級品で、こんなに角がとれたシーグラスはなかなかないです。自然は素晴らしいし、食べ物も素晴らしい。食べ物の話をもっと街全体でしていきたいと思っているんです。食育目標を議会で質問したけど、「何を食べさせたいか」、「どんな食文化を引き継いでもらいたいと考えているのか」、「給食で何を食べさせるのか」という議論がないのかなと思います。給食は、みんなが平等に食べるものです。食が壊れている家庭もあって、米を炊かないとか魚を家でどれくらい食べているかとかバラツキがあって。給食で魚が出たときに、担任の先生が魚の骨を取って回っているという話を聞いたことがあります。食材でも価格が高いものがあるじゃないですか。給食でしか食べれない子もいるかもしれない。みんなが食べれる給食で郷土の食を享受するのは大事だなと思います。それも私だけの意見なら偏りがあると思うから、みんなで話していきたいです。」
 
―――移住を考えている人へひとことお願いしてもいいですか?
「東京は子育てがしやすかったなと思います。公園の作りも全然違って日陰がちゃんとあるけど、こっちの滑り台は夏は熱くて滑れません。でも、須崎のような環境の良さは都会にはないです。川で泳ぐところなんて、東京では電車を乗り継いでそこまで綺麗ではないところに遊びに行ったことあったけど、須崎ならすぐ川に遊びに行けて、石も水も葉っぱも子供にとっては全部楽しい環境です。本当はもっと遊びやすくなったらいいと思います。地元じゃない人が川に遊びに来たときにどこでどう遊べばいいかわかりやすくなったらいいなと。でも、やっぱり自然に触れられる環境は最高ですよね。」
 
―――最後に今後の取り組みの意向を、杉山さんに改めてお聞きしました。
「自分の暮らし=自分の政治なので、政治の主役は自分なんです。それをどれくらい思って暮らしてくれるか、税金も自分のお金ですから。使い方がおかしいっていう指摘も含めて色々言える仕組みを作らないといけない。こちらももっと分かりやすく発信することにも責任があると思っています。私は議員になってから”市政懇談大使”と自称しています。市政懇談は直接市長に意見が言えてその場で答えてもらえる。他の市民や(市役所の)課長たちも聞いています。質問があったら丁寧に説明があって、すごくいい場所なので色んな人に来てほしいです。平日の夜だけじゃなくて土日もやるべきだとかオンラインでやるべきだとか方法を模索していて、年々参加者が増えているんじゃないかなと思っています。議員になったばかりの頃は、目安の時間より前に終わることも多かったけど、今年は時間いっぱいいっぱいまで話していたり、お子さんを連れてきたりとか変化を感じます。市がアンケートを実施したりと、ちょっとずつ前進しています。2階が会場だと上がれない人もいるから、色んな方法を模索して幅広く意見を聞かせて欲しいです。最初は一期だけでも意味があると思って飛び込んだけど、議員になってすぐに一期だけというのはあり得ない世界だと思いました。たくさん勉強させてもらい、意見も聞かせてもらっているので、1期だけでは市民の皆さまに還元できません。住民福祉の向上のために、精一杯取り組んでいきます。」
 
須崎の移住者の中で、恐らく最も大きな変化があった杉山さん。議員として奮闘する日々の話を聞いて、とても刺激を受けました。これからの須崎がよりよい街になるように、私たちもできることから自分ごととして考えなければと感じました!
 
(取材:2025年10月 片田・大﨑)
 
12年前に取材した記事かこちらから↓


 
東京から須崎へ来たきっかけ、それは子どもへの放射能の影響を考えて、と話す杉山さんご夫婦。なぜ須崎だったのかを奥様の愛子さんに聞いてみました。
 
「東日本大震災が起こった後、放射能の心配が出てきましたよね。そんな危険性のある場所で暮らし、子どもたちを危ない目に合わせてまで東京にいることはないと思い移住を考えました。私はもともと須崎市出身で、主人が福岡の出身なんですが、須崎にしたのは、子どもが小さいうちは、自然の中で育てたいとの思いからです。」
 

一方、福岡県出身のご主人はシステムエンジニアの仕事をされていましたが、移住をされて大変だったことも多いそうです。「まず、須崎へ来て仕事がなかったことが大変でした。高知にはシステムエンジニアの求人が少ないですね。今は海岸線を通って南国市まで通勤をしています。」
 
―――通勤は大変ではないですか?
 
「車で1時間20分かけて通勤しているんですが、東京で働いている頃は満員電車で1時間、乗り継ぎもあったりとストレスのある通勤だったので今の通勤は特に苦になりませんね。朝日・夕日を見ながらの通勤は気分が良いですよ。毎日通ってたら景色なんてどうでもよくなったり、運転疲れしたりもありますけど(笑)。妻は恵まれていると言います。確かに東京と比べると気分的な違いは大いにあります。」
 
「職場に近い南国市に引っ越しすることも考えましたが、今住んでいる家と同じような良い物件が見つかるとは思えないんです。ご近所さんがとっても親切で、川や海も近い。大家さんもすごくおおらかな方で、人に恵まれているなとすごく感じます。」
 
―――須崎での子育てはどうですか?
 
「須崎は子育てするのにとても良い環境です。海山川全て揃っていて、近くを流れる新荘川は子どもを連れて遊ぶのにちょうどいいサイズです。海でも遊ぶだけでなく、“しゃしゃぶ”という実を採ったりして楽しんでいます。遊ぶと同時に食糧確保みたいな♪(笑)。困ったことといえば、先日子どもが火傷したときに皮膚科が開いてなかったことです。須崎の病院の皮膚科は曜日や時間が決まっているので、救急時に受診できないのが不便かもしれません。あとは、産科が無いのも困りものですね。高知市まで行かないといけないですから。あとは、須崎には子育てサークルもいくつかあります。自分の住む上分地区には、“上分仲良しクラブ”というのがあり、週1回公民館で子どもを遊ばせたり、親同士の交流ができる場があります。そういったのに積極的に参加して、情報収集したりしています。」
 
現在、畑に挑戦中の愛子さん。最初はどうすればいいかわからなかったところをご近所さんにいろいろ教えてもらったとのこと。「手取り足とり教えてくれました。むしろ、やってくれたと言った方が良いかもしれません。何もわからない状態で土地を借りたにも関わらず、畑を作りに来てくれるんです。笑い話なんですけど、夏の朝、子どもを畑につれて行ったら、こんな暑い時間に連れてくるなと言われ、夕方行ったら、こんなに蚊が多い時間に連れてくるなと言われました(笑)世話好きの方が多く、それがすごく有難いですね。都会に出て須崎の良さが分かったというよりも、須崎で暮らしてみて良さがわかった。という感じです。世話をやいてもらうことが好きじゃないと、こちらの生活には慣れないでしょうね。居留守なんてもってのほかです。東京では家に鍵を閉めるのは当たり前ですけど、こちらは鍵を閉めません。お客さんは「こんにちはー」と声をかけながら必ず戸を開けますからね。開かないと留守とみなされてしまいます。(笑)」
 
須崎で暮らし始めて自分たちで出来ることが増えたという杉山さんご夫婦。「自家製の味噌や梅干し、梅酒もつくります。何でも自分で作り始めたんです。今度は、地元のおばあちゃんに弟子入りして漬物作りもしていきたいです。生きていくことをおじいちゃんおばあちゃんから学ぶんです。大工や畑、田んぼを当たり前にできる、生活のすべを知っているってかっこいいなぁと。魚をさばけるようになったのもこちらへ来てからです。魚を丸々もらうこともあるので、さばけないと食べられないんです。」今度は自分たちが子どもにも教えて行く番。と、目を輝かせながらお話ししてくれました。
 
「想像していたよりも、お給料は少ないけど、こんなに美味しい野菜、生きてるイカなどもいただけて、とっても贅沢だと思います。一般的な贅沢は出来ないけれど、これで十分だと感じます。」
 
これからもやりたいことがたくさんあると話す杉山さんご夫婦。 今後も楽しい須崎暮らしを満喫して欲しいと思います。
 
(取材:2013年4月)